本場久米島紬 宮平登美子 作 「チョウバン重び5玉」
- 2018年10月5日
- 新着商品情報
素材:絹100%
制作:宮平 登美子(久米島紬事業共同組合)
商品番号:1-135
着用シーズン:10月~5月頃の袷
おすすめ帯:琉球紅型帯、花織帯、琉球絣帯、お洒落袋帯、名古屋帯など
久米島と紬
琉球国と呼ばれていた14世紀後半から、中国を中心に東南アジアの国々、日本、朝鮮国などと貿易を行い、他の国の産物を必要とする国を相手に「中継ぎ貿易」をしていました。
しかし、16世紀に入るとヨーロッパの人々が、東南アジアまでやってくるようになり、そのころから後退して中国貿易だけになります。
久米島の城跡では当時の中国からの青磁などが出土しています。貴重な品物がたくさんもたらされ、同時に紬織りの技術もその頃伝えられたものと考えられます。
そして琉球国は、工芸技術を磨いて工芸品を生産する方向へ大きく政策を転換しました。これらの工芸品は、中国や日本本土(江戸・大阪・鹿児島)への高級なお土産品となり、また貿易品にもなりました。
王府が工芸の生産に力を入れたことにより、17~18世紀にいたって花開きます。なかでも織物は種類が豊富で、琉球独自の文化とも数えられるようになりました。
そして「染織文化」の名にふさわしく、琉球国のすぐれた文化として内外に知れわたるようになりました。
久米島の生い立ち
「紬」は「紡織り」の略で、蚕繭から糸を取り出し、よりをかけて丈夫な糸に仕立てあげて織った絹織物もことです。織物の素材をみると、芭蕉・苧麻・木綿・絹がありますが、絹織物は首里を除くほとんどが、久米島で織られていました。
「紬」は「紡織り」の略で、蚕繭から糸を取り出し、よりをかけて丈夫な糸に仕立てあげて織った絹織物もことです。織物の素材をみると、芭蕉・苧麻・木綿・絹がありますが、絹織物は首里を除くほとんどが、久米島で織られていました。
14世紀の末頃、『琉球国由来記』という本の中で、久米島の「堂の比屋」という人が、中国から漂流してきた人と親しく交流するようになり、その後中国に渡り、養蚕の技術を学んで帰ってきたと書かれています。
しかし、なかなか技術が進展しなかった為、1619年、越前より坂元普基が国王の命を受けて来島し、蚕の飼い方や桑の木の栽培の仕方、綿子(真綿)の製法を伝え、その後、薩摩より友寄景友が来島し、紬の織り方と糸の染め方を伝え、技術的に従来にない飛躍的な進歩を遂げたと考えられています。
貢納布としての久米島紬
1609年に薩摩より侵略を受け、その2年後の1611年からいろいろな種類の税金が言い渡されました。貢納布として、紬が記録に残っているのは1661年がもっとも古く、江戸で久米島の紬織りが、「琉球紬」という名で、もてはやされるのは、これから100年も後のことでした。
1609年に薩摩より侵略を受け、その2年後の1611年からいろいろな種類の税金が言い渡されました。貢納布として、紬が記録に残っているのは1661年がもっとも古く、江戸で久米島の紬織りが、「琉球紬」という名で、もてはやされるのは、これから100年も後のことでした。
18世紀以後は、紬の生産が大変盛んになります。近代に入ってからの資料によれば、両村で紬799反を税金として納めています。この紬は、米の税金(租税)の代わりとして大半を納める仕組みで、これを「代納」といいました。これにより、米の税金は軽減されましたが、15~45歳までのすべての女性に課され、一種の人頭税とも言われ、大変負担の多いものでした。
しかし、不平等なことに役人の妻などは免除になったのです。各集落には、染物文子という係が指導や監督をする「布屋」(現在の公民館)という建物があり、そこが機織りの工房となっていました。
明治30年代に入って、御用布の制度はなくなりましたが、その頃までに伝えられた久米島紬織りの技能の伝統は、その後も脈々と伝えられ、現在につながっています。
産業としての紬へ
琉球王府時代からの貢納布制度は、
ようやく1903年(明治)になって、地租条例・国税徴収法の施行で廃止されました。こうして織物税の制度が撤廃されて、人々は自らの生活の糧を得る仕事として、再び紬を織ることに取り組むことになります。ここから、紬の産業が始まりました。
1905年、蚕業取調のために来島した藤戸竹網氏(県の技師)が、白い繭の蚕種ヤマトムシグワを導入し、普及したことで次第に生産が増えるようになります。蚕業の講習会も開催されたり、蚕種の無償配布が試みられ、養蚕業への様々な改良が取り組まれました。
そして翌年には、久米島尋常高等小学校に女子実業補習科が併置されました。この補修学校が、翌年には両村組合立女子工業徒弟学校となって独立します。徒弟学校は仲里村と具志川村の村境の儀間付近にあり、紬織物の指導を中心とした実業補修教育を施し、両村の子女を養成するようになりました。
琉球王府時代からの貢納布制度は、
ようやく1903年(明治)になって、地租条例・国税徴収法の施行で廃止されました。こうして織物税の制度が撤廃されて、人々は自らの生活の糧を得る仕事として、再び紬を織ることに取り組むことになります。ここから、紬の産業が始まりました。
1905年、蚕業取調のために来島した藤戸竹網氏(県の技師)が、白い繭の蚕種ヤマトムシグワを導入し、普及したことで次第に生産が増えるようになります。蚕業の講習会も開催されたり、蚕種の無償配布が試みられ、養蚕業への様々な改良が取り組まれました。
そして翌年には、久米島尋常高等小学校に女子実業補習科が併置されました。この補修学校が、翌年には両村組合立女子工業徒弟学校となって独立します。徒弟学校は仲里村と具志川村の村境の儀間付近にあり、紬織物の指導を中心とした実業補修教育を施し、両村の子女を養成するようになりました。
この頃、織機は地機から高機に、絣は手結いから絵図に移り変わりました。大正期においても久米島や八重山を除けば、多くの地域で旧式の地機を使用していたといわれます。これらのことは久米島の振興に大きな力となりました。
重要無形文化財
平成16年7月16日(金)に、国の文化審議会文化財分科会において、久米島紬を「国の重要無形文化財」として指定し、その保持団体として「久米島紬保持団体」が認定されました。
平成16年7月16日(金)に、国の文化審議会文化財分科会において、久米島紬を「国の重要無形文化財」として指定し、その保持団体として「久米島紬保持団体」が認定されました。
今回の指定及び認定により、沖縄県における国指定重要無形文化財の指定件数は7件、保持団体の認定件数は3件目となりました。
▼重要無形文化財について
久米島紬は、久米島に伝承されている絹織物です。久米島では15世紀頃にはすでに養蚕が行われていたとみなされ、17世紀に琉球王府への貢納布に定められて以来、御絵図に代表される絣のほか、縞、格子などの織物の製作技術が高度に発揮しました。
▼重要無形文化財について
久米島紬は、久米島に伝承されている絹織物です。久米島では15世紀頃にはすでに養蚕が行われていたとみなされ、17世紀に琉球王府への貢納布に定められて以来、御絵図に代表される絣のほか、縞、格子などの織物の製作技術が高度に発揮しました。
現在の久米島紬の製作技術は、王府時代以来の伝統を保ち、養蚕、糸づくり、糸くくり絣、天然染料による染色、手織り等、手作業による古来の技法です。なかでも原材料と染色に大きな特色があり、すべて天然の材料が使用されており、かつ、そのほとんどが島内産です。
養蚕及び桑の栽培は一時中断していましたが、近年再び行われ、技術の伝承が図られるようになりました。久米島紬は、芸術価値が高く、工芸市場重要な地位を占め、かつ、地方的特色が躊躇な染色物でもあり、平成16年に重要無形文化財に指定されました。
指定の要件/1、糸は紬糸又は引き糸を使用すること・2、天然染料を使用すること・3、絣糸は手くくりであること・4、手織りであること
指定の要件/1、糸は紬糸又は引き糸を使用すること・2、天然染料を使用すること・3、絣糸は手くくりであること・4、手織りであること
※販売価格はお問い合わせにて対応致します。
この記事を書いた人
沖縄着物(琉球着物)『きもの58』の店長です。お客様にお喜びいただけるよう沢山の沖縄着物をご用意いたします。LINEでも来店予約を受け付けていますので気になる方は是非ご活用ください!!
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